July 05, 2008

『一億百万光年先に住むウサギ』(BlogPet)

ぽちの「『一億百万光年先に住むウサギ』」のまねしてかいてみるね

「星磨き」を助け、あまり経済的に気づくことだ——ということだ——という保証はだんだん減り、何かは一つでのそばにどうなるようにふれてはなかった恋人を目指しているということを置き、料理をしに丁寧にとでも言ったらいいのかもしれない大切な相手も心から離れた!!
美しい音楽だったり、料理をした、言えない寂しさにと思っていく!!
手紙があっていくの少女の足立先生は、何より、家族とまぶしさ!!
その問題がよかったこと——という、料理を描くこと——という保証はない環境だから最後に、もう一度力強く生きようとまぶしさに住むウサギが、あまり経済的に星を、程よい距離でいるの中学生・ゾーヴァ装丁:那須田淳装画:坂川事務所)…と思う本に参加する中学生・ゾーヴァ装丁:坂川栄治+田中久子(坂川事務所)…とはいたい♪
正しい言葉遣いなどに匿名の描写、もっと遠くに参加する中学生たちがあるという、その問題が物語を抱かさ。
町の話がとてもうれしい!!
時が出てから先生はいられない大切な知識で!!
残念ながら、ほんのちょっと苦しくなるか、自分の絆だったり、何か、学校を好きでの代筆を思いをしに住むウサギの神木の足立先生はだんだん減り、このウサギがとてつもなく恐ろしく感じさせる少女は一つで語られたから先生の少女はわからないの描写がよかった恋人を助け、その人に匿名の描写、手紙。

*このエントリは、ブログペットの「usapochi」が書きました。

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June 28, 2008

『一億百万光年先に住むウサギ』(BlogPet)

ぽちの「『一億百万光年先に住むウサギ』」のまねしてかいてみるね

「そういうときは夜空の星を見よう。白鳥座のアルビレオは知っているかね。(中略)探してごらん。きっときみと同じように、その星を見つめている人が、この世界のどこかにいるはずだ」久しぶりに、元大学教授のかもしれない。
その人に参加することで、学校を入れる♪
けれども、母親主導で小さな喫茶店を中心と豊かなのひょうしにたくさんあるということが輝けば、言えない環境だ——という保証はわからない寂しさを引っ張っているの絆だったらいいな伝説「地元感」と思う本にと(そうだったらいいのことだったり!
この世界は包まれているウサギの描写、料理を好きでいるの中学生たちが輝けば懐かしさにとでも言ったらいいな相手も、そうだったらいいの目線だけあったバイトの便利屋から先生のそばには、ジャズ、父親が輝くという保証は、あまり経済的に出会うことに派遣さに心を好きでしまったけれど、支えるものにどうなる!
ドキドキしに心を入れる。
大切なのことに思いながら。
舞台は一つで小さな喫茶店を馳せても離れた、風景の出生について、そうでしまったことはいても心から離れたバイトのだ?
残念ながら、自分を抱えては父に書こうと思わずに、家族と(坂川事務所)………としながら♪
森の足立先生の描写、手紙が交響楽団をリストラさを助け、最後に住むウサギにどうなるように星を、グラモフォン(そうだったらいいな伝説「地元感」とする中学生・ゾーヴァ装丁:理論社構成や心理描写が美しい。

*このエントリは、ブログペットの「usapochi」が書きました。

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February 06, 2008

『一億百万光年先に住むウサギ』

「さびしくて眠れないとき、どうすればいいのでしょうか?」

「そういうときは夜空の星を見よう。白鳥座のアルビレオは知っているかね。(中略)探してごらん。きっときみと同じように、その星を見つめている人が、この世界のどこかにいるはずだ」


一億百万光年先に住むウサギ久しぶりに、ここに書こうと思う本に会った。
会えたことがとてもうれしい。ここのところ、ずっと、心に残る本に出会うことがなかったから。




『一億百万光年先に住むウサギ』
著:那須田淳
装画:ミヒャエル・ゾーヴァ
装丁:坂川栄治+田中久子(坂川事務所)
発行:理論社


構成や心理描写、言葉遣いなどに多少不満があったけれど、最初から最後までほぼ一気に読んでしまった。面白かったから。
冒頭でいきなり興味を抱かされた。素敵な伝説「恋樹(こいのき)伝説」にあやかって、元大学教授の足立先生と女子中学生たちが、手紙のやりとりをすることになった。ふつうの手紙ではない。森の神木のそばに瓶を置き、そこに匿名の手紙を入れる。
時が経つごとに参加する中学生はだんだん減り、残りはたった一人になる。青春の悩みと寂しさを感じさせる少女の手紙。先生はそれに丁寧に応えていく。正しい言葉と豊かな知識で。

舞台は鎌倉。町の便利屋から先生の家に派遣されたバイトの中学生・翔太の目線で語られていく。翔太は先生の代筆をすることで、少女の手紙にふれていく。ドキドキしながら。
こういうふうに先生と少女の手紙が物語を引っ張っていくのかと(そうだったらいいなと)期待しながら読んだ。残念ながら、そうではなかったけれど。

画家を目指していた翔太の目線だけあって、風景の描写が美しい。ドイツ、珈琲、ジャズ、グラモフォン(蓄音機)……と、ディテールも豊富だ。
中学時代独特の、「地元感」とでも言ったらいいのか、学校を中心としたコミュニティの、程よい距離での温かさ。
中学3年生の、もうすぐ別れなくてはならない寂しさを押し隠した、宝もののような日々。
そういう時期の、もどかしい恋。
思い出せば懐かしさとまぶしさに、ほんのちょっと苦しくなるようなものに、この世界は包まれている。

でも、何より、ウサギがよかった。

磨いた星が輝けば、好きな相手も自分を好きでいるということだ——という、占いみたいな仕事「星磨き」をしているウサギの話が出てくる。もしウサギに星を磨いてもらっても、星が輝くという保証はない。先のことはわからないのだから。けれど、ウサギは実は、もっと遠くに思いを馳せていた。30万光年も離れた恋人を思いながら、星を磨きつづけているのだ。
このウサギが幸せになりますようにと思わずにはいられない。


手紙の少女は、自分の出生について、ある悩みを抱えている。翔太の家も、父親が交響楽団をリストラされてから、母親主導で小さな喫茶店をほそぼそと経営していて、あまり経済的に恵まれているとはいえない環境だ。
そして、翔太は父にもう一度音楽をやってほしいと思っているが、言えないでいる。

その問題が、最後にどうなるかは、書かないでおきます。

何かのひょうしに心のバランスを崩してしまって、見えない未来がとてつもなく恐ろしく感じられることがある。けれども、もう一度力強く生きようとするとき、心を再生して立ち上がろうとするとき、その人を助け、支えるものは、何があっても心から離れない大切なものの存在に気づくこと——そのものなのかもしれない。
美しい音楽だったり、絵を描くことだったり、料理をすることだったり。町だったり、友達だったり、家族との絆だったり。
大切なものは一つではなく、星のようにたくさんあるということを、いつも心においておきたい。そして、今をきちんと生きていたい。

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August 23, 2006

『TUGUMI』の夏

今年もまた夏が終わろうとしている。
暦のうえではどうあれ、夏はそろそろと後ろ姿を見せはじめている。
そして、今年もまたわたしは『TUGUMI』を読んだ。


夏や海。その海辺の小さな町。そこに住むやさしい人たち。それから、おもいで。
どの瞬間のそれも忘れたくなくて、でもきっとそんなわけにはいかなくて、それでもやっぱり振りきることもできない想い。

また会えることを知っている。だけど、同じ瞬間など二度と訪れないことも知っている。
咲いてはあっというまに散る花を見るときのような、輝いては消えてゆく花火を見るときのような、うまく言葉にできない気持ち。
同じときを生きるいとしさと別れのさびしさが、この本にはいつも流れている。
いつ、どんなときに開いても、その心地よいさびしさが心に流れこんでくる。ほんとにいとしい。
夏の夜——それも夏の終わりの入り口の夜、静かに読みたくなる本だ。

お盆を過ぎたころにいつも思う。「そうだ、『TUGUMI』を読もう」と。


この穏やかにたゆたうさびしさが心地いいのは、なぜなんだろう。
いつも「つぐみ」というより「まりあ」寄りになって、つぐみという子のいる日々、とりわけあの最後の夏の日々を懐かしみ、そしてさびしくなるのだ。
人は孤独でさびしいものなんだと、泣き叫びたくなるような。
だけど、みんながどこかでつながっていることもちゃんと理解しているから、その幸せにつつまれてあんしんするような。
それは自分の輪郭に出会った人だけが味わえるほんとうの孤独であり、心地のよさであるのかもしれない。

その夏の終わり——それはたしかな幸せを手に入れる以前の自分との自然な別離であって、これから自分のほんとうの人生がはじまる、と、まりあは感じている。
自分の輪郭を初めて目の前にしたつぐみも、また。

死とか、生とか、なにかとてつもなく大きなものを、優しく体のなかに取りこんでしまうような深く静かなものが、読み手をつつむ。
文章がうまいとかではなく、空気感というのともちょっと違う気がする。
物語は文章や構成だけで成り立つものではなく、目に見えないなにかがとても重要だ。
見えないものも心にしっくりくる作品に出会えたというのは、きっと、幸せなことなのだろう。

わたしにはそういう本が少しある。
『夜のパパ』。
『星兎』。
そして『TUGUMI』も。

心地いいさびしさにつつまれるために、わたしはきっと、またこの本を読むだろう。
来年の夏。

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August 03, 2006

『カラフル』

死んだはずのぼくの魂が、ゆるゆるとどこか暗いところへ流されていると、いきなり見ずしらずの天使が行く手をさえぎって、
「おめでとうございます、抽選にあたりました!」
と、まさに天使の笑顔をつくった

(以下、橙色の字は引用)


もうずっと前から、書名だけは知っていた。話題作には満足できないことが多いせいか手に取らなかったのだけれど、この冒頭を読んで、これはきちんと読んでみようと思った。誰かの「仕掛け」で話題になった作品とは違う香りがしたからだ。


カラフル

『カラフル』/森絵都
イラスト:長崎訓子
ブックデザイン:池田進吾
発行:理論社


黒もあれば白もある。
赤も青も黄色もある。
明るい色も暗い色も。
きれいな色もみにくい色も。
角度しだいではどんな色だって見えてくる。

この世界にはいろいろな色がある。
人にも、いろいろな色がある。
当たり前のことだけれど、その当たり前のことを意識して過ごすことが、なかなかできていない気がする。自分が見て判断した考えだけで観念を固定して、固定してしまえば覆すことがない。面倒くさかったり、自分を否定したくなかったり、理由はさまざまだと思うけれど、なんとなく、そうだ。

この物語は、そんなふうに自分が見た世界と現実との差異に衝撃を受けて自殺した少年「小林真」の、その体を一時的に借りて「輪廻のリベンジ」に不本意ながら挑戦させられている魂「ぼく」が主人公だ。
すでに死んでいた魂の「ぼく」が生前の自分を思い出すことができれば、「ぼく」はまた生まれ変わることができるという。
でも、「ぼく」にはあまり意欲がない。天使の「プラプラ」に強要させられるまま、さえない中学生「小林真」の代役を務めはじめる。



筋もディテールの役割もぼんやりと予想がついてしまうのだけれど、それでも不満足な部分はまったくなかった。「ぼく」のシュールな目線と人物たちのコミカルな会話が、妙にリアルで無駄がない。

無駄がなく筆者のエゴもない。文章がきれいで豊か。大事なことをすっきりと教えてくれる。そんな本が好きで、だからわたしが惹かれるものには児童書が多いんだろうな、と思う。


人は自分でも気づかないところで、だれかを救ったり苦しめたりしている。
この世があまりにもカラフルだから、ぼくらはみんないつも迷ってる。
どれがほんとの色だかわからなくて。
どれが自分の色だかわからなくて。


ぼくはまぶたの裏にぼくをまつ人たちのいる世界を思い描いた。
ときには目のくらむほどカラフルなあの世界。
あの極彩の渦にもどろう。
あそこでみんなといっしょに色まみれになって生きていこう。
たとえそれがなんのためだかわからなくても――。


こんな表現にすべてが集約されている気がする。

とても大事なことを「当たり前だから」と見過ごさないで、いつもかみしめていたい。
うっかりすると忘れてしまいそうな自分だから。
このブログを始めてみたのも、出会ったひとくさりひとくさりを憶えていたくて、それでだったのかもしれない。

このごろ、心の底から素敵だなぁと思える本になかなか出会えないのだけれど、新しいものに出会うより、すでに出会ってきた素敵な本にまた会って、また感動して……という時期にきているのだろうか。

最後は、わたしがこの本でいちばん好きな言葉を。



しぶとく生きろ。



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May 27, 2006

さびしさから生む。

いろいろな意味で「さびしい」と感じることが多い。おいてきぼりをくらったみたいにぽつねんとした寂しさではなく、もっと静かでもっと底の深い絶対的なさびしさ。真剣になればなるほどの孤独。
初めての経験ではないけれど、これほどまで強くさびしいとおもうことはなかった気がする。

曲がりなりにも何かをつくる場所にとどまる以上、創造というものが容赦なく課してくるのは、「好き」でもないし「嫌い」でもない。もちろん「流行り」でもない。判断基準のない不安のなかで安易に寄りかかりがちな具体例も数字的裏付けも、本来頼るべき指針ではないのだろうとおもう。生むという甘くない作業は、便利でわかりやすいものとはかけ離れている。


さて、つくるという行為の意味をどうやって伝えるか。人の不安を凌駕できるほど説得力のある言葉を、わたしはまだ見つけることができていない。形にもできていない。プライドを高く持てるほどの何かを体得したいと常に願うのだけれど。肝心なそれがないから余計にさびしいのだろうか。それとも「さびしい」とおもうこと自体、プロではない証拠か。


しかしそれでも、ものをつくる人々の言葉は力強く響く。作品をとおしても届けられる。モーツァルト、ガウディ、栃折久美子、祖父江慎、岡本太郎、杉山寧など——音楽家、画家、作家、建築家、役者、演出家、それにあらゆる職人、芸術家。みんな、つながっている。美しいものの美しさを作品で伝えることと言葉で伝えようとすることとは、決して別々なものではない。


たとえばリルケは「孤独でなければ意味がない」とまで言っている。離れた土地に住む見知らぬ人同士が意思交換をするといえば手紙が主だった時代、リ ルケはこの手紙という手段をとても大切にしていたらしい。会ったこともない若き詩人の問いかけに、手紙を通じ、親身に真っ直ぐに答えていた。きっと誠実な人だったのだろう。
彼の言葉に助けられた人も多いのではないか。


いつか多くの人々に可能となることをすべて、孤独の人間は今すでに準備することができ、迷うことのより少ない彼の手で築くことがで きます。それだからこそ、あなたはあなたの孤独を愛して下さい。そして孤独が美しい嘆きの声を響かせながらあなたに味わわせた苦痛をになって下さい。


あなたに近い人が遠く思われる、とあなたは言われますが、それこそあなたの周囲が広くなり始めたことを示すものにほかなりません。 そして、あなたの近くが遠くあるのならば、あなたの遠くはもう星々のあいだに没し、実に大きいものです。あなたは全く誰一人伴うことのできないまでになっ たあなたの成長をお喜びなさい
(以上、太字は『若き詩人への手紙』より)



誠実な答えは、いつの時代であっても、どのような人であっても、その人が問おうとさえすれば必ず、澄んだ響きを返してくれる。返すものもまた、どんなにかさびしかったろうとおもう。
言葉にできないさびしさを拾い集めては問いかけ、返ってくるそれらを糧に、いつまでもものを創っていたい。

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May 11, 2006

『ニホンゴキトク』『ボクネン 大自然の伝言(イアイ)を彫る』

お久しぶりです。ぽちです。
素敵な本に出会っていますか?
もしよろしければ、教えてくださいね。

さて、最近わたしが読んで心底感じ入ったのは、この2冊です。


『ニホンゴキトク』/久世光彦
装幀:中島かほる
装画:落田洋子
発行:講談社

『ボクネン 大自然の伝言(イアイ)を彫る』/名嘉睦稔
ブックデザイン:山口真理子
発行:サンマーク出版


意図したものではありませんが、どちらも書名がカタカナ。
久世さんは、久世さんにというよりも、久世さんをとおして見た向田邦子さんになんとなく惹かれて時々読みます。このエッセイは間違いなく「名作」だと思う。
ちょっと前、「世間では日本語がブームだ」などと騒がれていましたね。日本語に興味がある人には本当に読み応えのある本だと思います。

久世さんの作品を光らせるのは、言葉に関する知識と感覚、感性、それから文章の出来の良さ。リズムよい文章でリズムよい他人の文章を誉めている部分など、才能の共鳴にうっとりします。
つねづね、英語が苦手な自分を奮い起こす(?)意味で、「まず一生懸けて日本語をしっかりと身につけよう」と前向きに生きているのですが、一朝一夕にはいくものではない上に、向田さんや久世さんのように「言葉へのこだわり」も大してないので、身につくわけがありません。まずは感性を磨くことから始めなくては。言葉と見る目や感性は直結しているものだ。

ついでというわけではありませんが「ウチナーグチ」にも興味があります。ウチナーグチを知ると心もウチナーのように在り得るのでは、なんてほのかに希望を抱いていたりして。
2冊目で語られる版画家・名嘉睦稔さんの言葉はほとんどウチナーグチではありませんが、中には沖縄のものの見方・考え方が十分に込められていて、読んでいると時々涙が出ます。土の上を裸足で歩いて木に登ったり、動物のように四つん這いで歩いてみたり、じっくりと空に見入ってみたりしたくなる。風の通り道を見つけて、誰も付き合ってくれなくても一人でじっと風を感じてみたくなる。生きててよかったなあと思う。

絵を描くことについては抽象的な本書なのですが、油絵も木版画も音楽も建築もブックデザインも、根本的なところは相通じるし、読んでいると全部がすんなりと身体に入ってくるような気がします。それは作り手——芸術家の腕もさることながら、素材そのものがそうさせていると感じられてなりません。
描かれる風景や命、奏でられる想い、奏でざるにはいられない衝動、建てられる大地と支えるもの、伝えたい想いが表現された言葉と形。すべてつながっている。蝉時雨みたいに響いている。

2冊とも「響き」がある。周囲との響きを語る文章を読んでいると、その響きに自分も包まれているかのような気がしてきます。ホーミーが響き合う高低二つの音で人の脳にα波を起こさせるようなものなのでしょうか。お二人のくらしとわたしの生活なんて全然共通する点はないのに、どうしてか。本当に不思議だ。

偶然どちらにも「哀しみと幸せ」についてふれた文がありました。人生の半分が幸せだとしたら、もう半分は苦しさだと久世さんはおっしゃっています。
かたや名嘉さんは「風」を大事にしている人なのですが、こうおっしゃっています。

「ぼくは風に吹かれていると、ふとこんな気持ちになることがあります。今、自分が幸せな思いをしたわけではないのに、悲しい思いをしたわけじゃないのに、非常に「ああ、幸せだな」と感じる。と同時に、悲しみの感情も覚えているわけですよ。」(『ボクネン』より)

名嘉さんはそれを「風のなかの伝言(イアイ)」とよびます。
幸せと悲しみ、生と死、心のなかにあるあらゆる感情。風によって繰り返される命のつながりの中で自分も生きているという幸福感と、そこはかとない感傷。生きるというのはすっきりと美しくなくていい。混沌としていて惨めで、情けなくていい。名嘉さんの言葉は、自分を恥じずに可能性を広げることを促してくれます。

笑って、泣いて、命を思い、言葉を味わえる。本当に、オススメの2冊です。

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